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 ぶらり歩き   
 34. 出雲大社を訪ねて (3)   平成26年5月1日
 ここまでは写真撮影は制限されていないが、石段を7段上がった八足門(やつあしもん)(写真9)の内側、瑞垣(ずいがき)内は撮影が禁止されている。八足門は寛文7年(1667年)に建立され、流文様の彫刻が施され、国の重要文化財に指定されている。八足門は8本の柱で支えられた門という意味と推察してよいのであろうが、八という数字は、高天原を追い出されて出雲国に降り立った須佐之男命(スサノオノミコト)が退治した八俣大蛇(ヤマタノオロチ)、その後に詠んだという、「八雲立つ出雲八重垣妻込みに八重垣造る其の八重垣を」の八尽くしの日本初の和歌、大国主命の愛妃・八上姫(やがみひめ)等、八は末広がりの意味もあり、出雲を象徴する言葉なのかもしれない。

 ガードマン一人が門前に警備する八足門を潜ると、国宝に指定されている本殿を正面に見ることができる。瑞垣内には複数のガードマンが立ち、お詣りも何となく落ち着かない。祭神の大国主大神は、平成の大遷宮で屋根の葺き替えなどの修造工事が成った本殿に還っているが、屋根を除き、本殿は全体に白っぽい建物という印象を受ける。日本最古の神社建築様式である大社造りの本殿の背後には、かなり近接して八雲山がそびえ、日本の信仰の対象が山であったことを思い出す。

 本殿で参拝を終えて、御守所で今回の参拝の目的の一つである息子の縁結びを祈願するお札を奉納する。
 
 本殿の背後に回り、瑞垣の外から本殿(写真10、右の建物)を撮影したが、建物規模ということではそれほどのものではなく、どちらかというと質素な建物といえる。しかし、最近、高円宮典子様との婚約発表があった出雲大社宮司の千家国造家(せんげこくそうけ)に伝わる本殿の設計図とされる「金輪御造営差図」(かなわのごぞうえいさしず)によると、古代、中世における本殿の高さは現在の4倍、2倍もあったといわれる。実際、平成12年、13年に境内の遺跡調査おいて、杉の大木3本(写真4)を束ねて1組とした柱の根本が3か所で発見され、古代、中世の本殿は高さがそれぞれ約97m、約48mもある巨大構築物であったことが裏付けられている。県立古代出雲歴史博物館には、古代の本殿を再現した1/10の本殿の模型(写真11)が展示されている。
 
 このような巨大な本殿を造った理由は何なのか。古事記によると、出雲に勢力を張った大国主命に対して、アマテラスが武力をもって征服しようとして二人の神を伊耶佐(いざさ)の小浜(現在の稲佐の浜)に上陸させる。そのとき、大国主命は息子に相談すると、前述のように次男・武御名方命(たけみなかたのかみ)は国譲りに反対して諏訪まで逃げるが、結局、国を譲ることに同意する。大国主命は国を譲る代わりに、高天原のアマテラスの御殿のような神殿を建てることを要求したと伝えている。すなわち、大和朝廷に降伏した出雲朝廷が政治を離れ、神に仕えるために天にそびえる神殿を造ったということになる。しかし、当時、50メートルを超えるような大規模建物を施行する技術を有していたことに驚かされる。 

 出雲大社の社域は樹木が多く、心洗われる場を醸し出していて生々とした気分をもって参詣を終えることができた。駐車場の一画に平成11年に岐阜県揖斐川町の小林宗一氏より奉納されたさざれ石(写真12)が展示されている。学名でいうと石灰質角礫石であるが、長期間かけて溶解した石灰石が多くの小石を終結してできるものだという。まさに、大国主命の幸魂奇魂を表わす岩といえる。
  
    

写真9 出雲大社 八足門

写真10 出雲大社 本殿(右の建物)

写真11 古代神殿の模型

写真12 さざれ石

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